ロゼッタストーン日記

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zoom RSS 9月12日(水) 『戦後史の正体』(孫崎 享)

<<   作成日時 : 2012/09/19 23:55   >>

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孫崎 享(まござき うける)氏は、元外交官。駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を経て、2009年まで防衛大学教授を務めていた。『戦後史の正体」は、孫崎氏が日米関係に注目して、日本の戦後史を振り返った本だ。「高校生でも読めるように」という編集方針で書かれているので、非常に読みやすい。

孫崎氏は、「対米追随路線」と「自主路線」の間で、どのような選択をするかが、戦後の日本外交だったとして、戦後の主な政治家の行動を検証している。そして、自主路線を選択した政治家の多くが、排斥されていることを指摘する。

1945年、終戦直後、重光葵(まもる)外務大臣は、「英語を公用語とする」「米国に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する」「米国軍票を法廷通貨とする」といった布告が出されることを知り、この布告をとりやめるようマッカーサーに直談判した。説得は成功したが、2週間後には外務大臣を辞任させられた。翌1946年にはA級戦犯容疑で逮捕起訴され、有罪判決を受けている。

敗戦後、1946年から1951年にかけて、日本政府が支払った米軍駐留経費(終戦処理費)は、一般会計の2割から3割にものぼったという。「占領下だから文句を言っても仕方がない」という立場が吉田茂。終戦処理費の削減を主張したのが石橋湛山。結果的に石橋湛山は、GHQによって公職追放されてしまった。一方、吉田は徹底した対米追随路線で、その後、長期政権を築く。

1947年、新しい日本国憲法のもとで総選挙が行われ、片山哲ひきいる社会党が第一党になった。クリスチャンであった片山内閣の誕生をGHQは喜んだが、左派すぎる平野農相については解任を求めた。片山首相は要求にしたがい平野農相を解任し、その結果、平野派の支持を失って総辞職に追い込まれた。

芦田均は、外務大臣時代、占領終結後の米軍は有事の場合にだけ駐留するという案をGHQに示していた。芦田は総理大臣になってまもなく、昭和電工事件というスキャンダルにまきこまれ、わずか7か月で失脚する。辞職後、芦田自身も特捜部に逮捕されるが、14年半をついやした裁判の結果は、無罪だった。

検察の「特捜部」は、GHQの管理下でスタートした「隠匿退蔵物資事件捜査部」というのが前身で、その任務は、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差し出すことだったという。芦田は、逮捕される以前から、政界引退と引き換えに事件捜査を打ち切ることを検察から示唆されていたそうだ。孫崎氏は、「芦田はその時点で、まだ民主党の党首です。昭電事件には関係していませんから、近い将来、首相に復帰する可能性がありました。だから、芦田がふたたび首相になって、謀略をしかけた勢力に報復する可能性を消しておく必要があったのです」と解説している。

その後、長く続いた吉田茂内閣のあと、鳩山一郎内閣が誕生する。鳩山内閣は、「自主外交」をとなえ、日ソの国交回復に邁進した。また米国への防衛分担金の大幅な減額を実現した。鳩山内閣のもとで外務大臣に復帰した重光葵は、アメリカと交渉し、将来の安保改定への道筋をつけた。さらに、12年以内の米軍の完全撤退を要求したが、その提案は一蹴された。それでも、まだ本当に弱小国だった1955年の日本が米国に対して「12年以内の米軍の完全撤退」を主張したことに対し、孫崎氏は、「現在の日本では、米軍完全撤退や有事駐留論はおろか、普天間基地ひとつ海外へ移転させるというだけで、『とんでもない暴論』とみなされてしまいます。(中略)米国内でも、そうした日本側のさまざまな要望を真剣に検討する姿勢は、過去に存在していたのです。そうしたまともな議論を『とんでもない』といってつぶしつづけているのは、本当はだれなのでしょうか」と、述べている。

鳩山内閣は、ソ連との国交回復をはたし、それを花道に在職期間2年で退陣した。このときの日ソ共同宣言では、領土問題について、将来平和条約が締結されたときには、「歯舞群島および色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と書かれている。

孫崎氏によれば、北方領土の北側の二島、国後島、択捉島は、第二次大戦末期に米国がソ連に対し、対日戦争に参加してもらう代償として与えた領土なのだという。しかし、冷戦勃発後、今度は国後、択捉のソ連への引き渡しに反対し、わざと「北方領土問題」を解決できないようにしているそうだ。理由は日本とソ連の間に紛争のタネをのこし、友好関係を作らせないため。1956年の日ソ交渉の際、「択捉、国後の放棄もやむを得ない」と判断していた日本政府に対し、アメリカのダレス国務長官が「もし、日本が国後、択捉をソ連にわたしたら、沖縄をアメリカの領土にする」と脅してきたのだという。

こういうやり方は、国際政治では常識で、英国も植民地から撤退するときは、かつての植民地が団結して反英国勢力にならないように、多くの場合、あとに紛争の火種を残していくそうだ。飛び地の領土をつくったり、領土の境界をわざと複雑に設定したり…。うーむ。「国家」って、なんて汚いんでしょう!

鳩山一郎内閣のあとで、首相になったのは、占領時代に大蔵大臣として米軍の駐留経費の削減を要求し、公職追放になっていた石橋湛山。自主独立路線を次々に表明した石橋だが、突如肺炎になり、わずか2ヶ月で総理を辞任した。

続いて総理になったのは、岸信介。岸はCIAから多額の資金援助を受けていた人物で、1960年に新安保条約を締結する。が、アメリカ寄りというイメージに反して、実際は不平等な旧安保条約を改定するために、全力で奮闘し、在日米軍の撤退も視野に入れていた。アイゼンハワー大統領は岸を支持していたが、軍部やCIAは岸の交代を望んだ。岸首相は結局、安保騒動によって退陣に追い込まれる。孫崎氏は、安保騒動の関係者による証言などから、岸首相の自主独立路線を危惧した米軍およびCIA関係者が、経済同友会などを通じて全学連に資金提供し、反政府デモを煽ったのだろうと推測している。

岸のあとを引き継いだ池田勇人首相は、安全保障問題は棚上げにし、経済に全力を注いだ。続く佐藤栄作は、対米追随路線を取らずに長期政権を築いた唯一の政治家。「核兵器をもっている国は、もっていない国に対して核兵器を使ってはならない」ということを非核保有国代表として核保有国に求めるなど、自主路線を進んでいた。佐藤は、ニクソン大統領との間で交わした米国の繊維輸入規制の密約を守らなかったため、米国から、数々の報復措置を受ける。ニクソンが中国を訪問するのに日本に事前通告しない、8月15日の終戦記念日にドルと金との交換を停止することを発表する、輸入品に10%の課徴金を課す(その後1ドルが360円から308円になって日本製品が約12%高くなったため取りやめになる)、尖閣諸島について日本支持を修正してあいまいな態度を取るようになるなど。(これも、尖閣諸島で日中を仲よくさせないようにするアメリカの戦略なのかしらん)

佐藤のあとに首相になった田中角栄は、日中国交回復を果たしたが、ロッキード事件によって、政治的に抹殺される。この事件では、日本検事立ち会いのもと、米国側に頼んで尋問してもらう「嘱託尋問」が行われた。その際、日本の法律では採用されていない手法がとられた。アメリカの証言者に対し、日本の法律に違反した内容がふくまれていても罪に問わないという約束をして尋問する、一般に言う「司法取引」だ。これによって、田中角栄は有罪になり、政治生命を絶たれた。当時の三木首相は、占領時代にマッカーサーから首相にならないかという誘いを受けているぐらい、アメリカと関係の深い人物。中曽根康弘元首相は、この事件は、米国によって意図的につくられた事件だとみている。孫崎氏も、日中国交回復が米国を怒らせたのだろうと分析している。

続く福田赳夫内閣の頃は、アメリカが「アジア離れ」をしていた時期。福田は「全方位平和外交」を表明し、日米という二国間だけでなく、広くさまざまな地域の問題に働きかけた。たとえば、東南アジアに対する「福田ドクトリン」では、ASEAN(東南アジア諸国連合)の連帯と強靭性(敵の攻撃に対する抵抗力)を強化するための自主的努力に協力すると表明した。

続く大平正芳首相は、「全方位外交」の旗をおろし、はじめて「日米同盟」という言葉を公式の場で使った。大平が死去したのち、首相になった鈴木善幸は、アメリカからの防衛費増額の要請を断るなど、平和への理念を強く持っている人物だった。しかし、訪米時に共同声明のなかに取り入れられた「日米同盟」という言葉について、「軍事的にはなんの変化ももたらさない」と発言したことから、「外交音痴」「総理の器でない」といったイメージがつくられていく。

次の中曽根康弘首相は、「日本列島を不沈空母にする」といった発言で、米国との軍事協力に踏み込んでいく。米国との関係は良好になったが、日本の防衛には関係のない高額な兵器をたくさん買わされるなど、代償も大きかった。また、経済では、米国の貿易赤字を解消するために、無理やりアメリカ製品を買わせる日米半導体協定を結んだり、日本のパソコンやカラーテレビに100%の関税をかけるなど、米国側の強硬な対応が目立った。

竹下登は、消費税の導入に力を注いだ首相で、日米関係にはあまり関心がなかった。米国が役割分担をもとめてきたときも、要求をはねのけている。竹下首相は、結果的に、リクルート事件によって辞任に追い込まれた。

海部俊樹が首相のとき、湾岸戦争が起きた。日本は米国に要請されるままに130億ドルの資金協力を行ったが、人的貢献をしなかったことから、米国議会は日本を消極的同盟国と位置付けた。

続く宮沢喜一内閣で、日本はPKO法案を採択し、人的貢献もできる体制をつくる。クウェートが戦後、米国紙に出した広告の感謝対象国に日本が入っていなかったなど、湾岸戦争での対応が国際的非難を浴びた…という認識が広がったためだが、実は、クウェートの広告はクウェート政府が指示したものではなかった。クウェートでは、戦後発行した開放記念切手シートに日の丸の旗を入れたり、戦争記念館に日本国旗を掲揚し、日本の貢献を数字(130億ドル)で説明する特設パネルを展示している。「国際社会が日本の財政的貢献を評価しなかった」という話が広まったのは、当時のアメリカ駐日大使、アマコストが日本の各層に説いてまわったからで、アマコストの工作が成功したのである。
宮沢首相は、日米間の貿易摩擦で、日本の輸出規制を求めるアメリカに烈しく抵抗した。宮沢首相は内閣不信任案が可決され、解散総選挙後に総辞職した。

非自民政権をひきいた細川護煕は、「冷戦的防衛戦略から多角的安全保障戦略へ」として、日米安全保障よりも、多角的安全保障を重視した。アメリカは警戒し、連立政権の要である武村官房長官について、「北朝鮮に近すぎるから彼を切るように」という指示を出した。しかし、その後、佐川急便からの借入金返済疑惑を追及され、細川首相が先に辞任してしまう。

次の村山富市首相の退陣を受けて連立政権をひきついだのは、橋本龍太郎。基本的には対米追随路線をとったが、沖縄の普天間飛行場の返還を要求した。彼は中国との関係が親密なのと、「米国債を売りたいという誘惑にかられたことがある」などの発言で米国から警戒される。クリントンがイラク攻撃に傾くなか、クリントンに親書を送り、長野五輪中の武力行使の自粛を求めた。これにクリントンは激怒し、中国を訪問するなどして、米中間の親密な関係を誇示した。

小渕恵三、森喜朗もクリントン大統領と密接な関係は築けなかった。この頃、クリントンは日本に対する関心を失っていた。

小泉純一郎は、北朝鮮を訪問して「日朝平壌宣言」を発表する。核開発問題で進展がないなか、日本が国交回復をめざして動き出したことに米国は烈火のごとく怒る。こうした関係悪化が原因だったのか、これ以降、小泉首相は歴代のどの首相よりも強い対米追随路線を歩み、イラク戦争にも参加した。

その後、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期政権が続く。福田首相の時代には、アフガニスタンへの陸上自衛隊の派遣や、米政府系の金融機関を救済するために数兆円の資金提供を求められるなど、米国からの強い圧力があったが、福田首相はそれを拒絶して辞任した。

民主党政権で、鳩山由紀夫首相が誕生し、普天間米軍基地の移設先を「最低でも県外」と明言したが、米国は早い段階からこれに反対した。政府内の誰も鳩山首相のために動こうとせず、鳩山内閣はつぶされた。その後の菅首相、野田首相は、極端な対米追随路線に転換した。

……という具合に、この本では、歴代の内閣とアメリカの関わりを、資料を提示しながら、丁寧に振り返っている。自国の利益を考えるという上では当然なのかもしれないが、安全保障上でも、経済上でも、アメリカのさまざまな要求に日本が振り回されてきたのがよくわかる。日本はかつてアメリカに占領されていたのだという事実を改めて思い出す。

孫崎氏は、長期政権となる吉田茂、池田勇人、中曽根康弘、小泉純一郎が、いずれも「対米追随」で、「自主派」は佐藤栄作をのぞき、だいたい米国の関与によって短期政権に終わっていることを指摘している。「自主派」の首相を引きずりおろし、「対米追随派」にすげかえるためのシステムとして、検察や報道も大きな役割を担っているという。米国が好ましくないと思う日本の首相を排除することは難しいことではなく、たとえば米国大統領が日本の首相となかなか会ってくれないことを大手メディアが問題にすれば、それだけで政権がもたなくなるのが日本の現実だという。

が、排除はできても、次の首相を米国が決められるわけではない。孫崎氏は、公職追放されたときの石橋湛山の言葉を紹介する。「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを2、3年もつづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」。
また、カナダのピアソン首相が米国の大学でベトナム空爆反対を間接的に表明した演説を行い、アメリカのジョンソン大統領に1時間にわたってつるしあげられた例も紹介。カナダでは「たとえ弾圧をうけようと、米国に物をいうべきときはいう」という理念を受けつぎ、その象徴として外務省の建物は「ピアソン・ビル」とよばれているのだという。カナダは、日本以上に米国からつねに強い圧力をかけられているが、イラク戦争への参加は拒否している。

つぶされてもつぶされても、次の政権がまたがんばればいいのだと孫崎氏は言う。つまり、私たちが、ちゃんと自国の主張をアメリカに言うことができる人を選び続けなきゃいけないってことよね。

孫崎氏が言うように、首相の在任期間の長短が、すべてアメリカの影響かというと、そこには疑問も残る。アメリカにもいろんな考えの人がいるだろうし、複雑な政治の世界では、他にもいろんな要素が働いているだろう。でも、政治家、特に総理大臣の資質が、日米関係に大きな影響を与えることは間違いないようだ。

ちょうどいま、民主党代表戦、自民党総裁選をやっている。総選挙後は、このなかの誰かが総理大臣になるのだろう。平和を強く願い、アメリカにきちんとものが言える人物であることを祈りたい。

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9月12日(水) 『戦後史の正体』(孫崎 享) ロゼッタストーン日記/BIGLOBEウェブリブログ
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