3月21日(水) 『一般意志2.0』
評論家で小説家の東浩紀氏の『一般意志2.0』(講談社)という本を読んだ。自分で小さな出版社を立ち上げて活動しているという共通点もあって、東氏にはここ1、2年注目している。この『一般意志2.0』は、私のように哲学にまったく詳しくない人間が読んでも面白かった。
一般意志というのは、もともとルソー(『社会契約論』が有名な、あのルソー)の造語。ルソーは個人の意志の集合体である共同体の意志を「一般意志」として、市民はそれに従わなければいけないと考えた。だが、それは「世論」とは違う。個別の意志を集めた全体意志(世論)がしばしば間違えるのに対して、一般意志は、つねに正しく、つねに公共の利益に向かう。全体意志は特殊意志(個別の意志ってことかな)の総和だけれど、特殊意志から相殺しあうプラスとマイナスを取り除くと差異の和が残る。それが一般意志なのだとか。
それを読んで思い出したのが、私が季刊ロゼッタストーンでやっていた「あなたが陪審員」というコーナー。ある事件をもとに、アンケートで有罪か無罪か、刑罰はどのぐらいが適当かを回答してもらっていたのだが、些細な犯罪で「死刑!」という人もいれば、悲惨な事件なのに「情状酌量で無罪」と主張する人もいた。回答数はせいぜい200人か300人ぐらいだったけど、みんなの意見を平均してみると、あら不思議。いつも解説者の弁護士さんが出す判決と同じような常識的な答えに落ち着いていた。「一般意志」っていうのは、そういうことかもね。
興味深いのは、ルソーは「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケ―ションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう」と述べているとこと。つまり一般意志というのは、コミュニケーションも合意も必要なくて(むしろ邪魔)、自然と数学的に存在してしまうものらしい。
東氏は集団の多様性がなくなった例として、いまの民主党と自民党の二大政党制を紹介している。ふむ。確かに大きな集団になればなるほど、民意と離れてくる面はありそうだ。
民主主義というのは話し合いによって方針を決めるシステムだけど、議論をするとどうしても声の大きい者や、力のある人の意見が通る。その結果、決まった結論がみんなにとって一番いいものとは限らない。日本人はもともと議論が苦手で、どちらかといえばひきこもり気味。でも、いまの時代は、一人一人の声が、たとえばグーグル検索やツイッターへのつぶやきなどによって、ネット上に吸い上げられ、膨大なデータベースになっている。ルソーの時代には、コミュニケーションをとらずにみんなの意見を集めることなど無理だったが、いまならネットにばらまかれた無意識の欲望をすくいあげ、政策に生かすことができるのではないか…。東氏が主張する「一般意志2.0」というのは、どうやらそういうことらしい。面白いなあ。
東氏は、「未来の国家では、政治家には、大衆の欲望に盲目的に従うのでもなければ、無視するのでもなく、大衆の欲望にじかに向かい合い、その力を受け止めたうえで、社会の暴走を食い止める調整の役割が期待される」という。簡単にいうと、政治家は政策の議論をすべてオープンにして、ニコニコ動画のように、目の前のモニターに流れる視聴者のコメントで大衆の欲望を意識しながら熟議を重ねていく…そういうイメージ。
そこのところは、正直、まだあまりぴんとこないんだけど、例えば「原発はもういやだー」なんていう個人の思いが、デモや集会に参加しなくても、ネットで集められた「一般意志2.0」として政治家に届くようになるとしたら、それは新しい世の中だなあ。
おもいっきりはしょって紹介しているので、興味がある方は本を読んでくださいね。
一般意志というのは、もともとルソー(『社会契約論』が有名な、あのルソー)の造語。ルソーは個人の意志の集合体である共同体の意志を「一般意志」として、市民はそれに従わなければいけないと考えた。だが、それは「世論」とは違う。個別の意志を集めた全体意志(世論)がしばしば間違えるのに対して、一般意志は、つねに正しく、つねに公共の利益に向かう。全体意志は特殊意志(個別の意志ってことかな)の総和だけれど、特殊意志から相殺しあうプラスとマイナスを取り除くと差異の和が残る。それが一般意志なのだとか。
それを読んで思い出したのが、私が季刊ロゼッタストーンでやっていた「あなたが陪審員」というコーナー。ある事件をもとに、アンケートで有罪か無罪か、刑罰はどのぐらいが適当かを回答してもらっていたのだが、些細な犯罪で「死刑!」という人もいれば、悲惨な事件なのに「情状酌量で無罪」と主張する人もいた。回答数はせいぜい200人か300人ぐらいだったけど、みんなの意見を平均してみると、あら不思議。いつも解説者の弁護士さんが出す判決と同じような常識的な答えに落ち着いていた。「一般意志」っていうのは、そういうことかもね。
興味深いのは、ルソーは「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケ―ションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう」と述べているとこと。つまり一般意志というのは、コミュニケーションも合意も必要なくて(むしろ邪魔)、自然と数学的に存在してしまうものらしい。
東氏は集団の多様性がなくなった例として、いまの民主党と自民党の二大政党制を紹介している。ふむ。確かに大きな集団になればなるほど、民意と離れてくる面はありそうだ。
民主主義というのは話し合いによって方針を決めるシステムだけど、議論をするとどうしても声の大きい者や、力のある人の意見が通る。その結果、決まった結論がみんなにとって一番いいものとは限らない。日本人はもともと議論が苦手で、どちらかといえばひきこもり気味。でも、いまの時代は、一人一人の声が、たとえばグーグル検索やツイッターへのつぶやきなどによって、ネット上に吸い上げられ、膨大なデータベースになっている。ルソーの時代には、コミュニケーションをとらずにみんなの意見を集めることなど無理だったが、いまならネットにばらまかれた無意識の欲望をすくいあげ、政策に生かすことができるのではないか…。東氏が主張する「一般意志2.0」というのは、どうやらそういうことらしい。面白いなあ。
東氏は、「未来の国家では、政治家には、大衆の欲望に盲目的に従うのでもなければ、無視するのでもなく、大衆の欲望にじかに向かい合い、その力を受け止めたうえで、社会の暴走を食い止める調整の役割が期待される」という。簡単にいうと、政治家は政策の議論をすべてオープンにして、ニコニコ動画のように、目の前のモニターに流れる視聴者のコメントで大衆の欲望を意識しながら熟議を重ねていく…そういうイメージ。
そこのところは、正直、まだあまりぴんとこないんだけど、例えば「原発はもういやだー」なんていう個人の思いが、デモや集会に参加しなくても、ネットで集められた「一般意志2.0」として政治家に届くようになるとしたら、それは新しい世の中だなあ。
おもいっきりはしょって紹介しているので、興味がある方は本を読んでくださいね。


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